Iwaya sazanami biography of michael jordan

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          巖谷小波

          巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人[1]、ドイツ文学者、ジャーナリスト。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人、楽天居、大江小波等がある[2]

          日本初の創作童話『こがね丸』(博文館、1891年)を発表して近代児童文学史を拓いた日本児童文学の先駆者と評される。

          人物

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          明治期に児童文芸作品を表す言葉として「お伽噺」を使用、自ら編集長を務めた「少年世界」「少女世界」「幼年世界」などの雑誌を通して日本中に児童文学を広めた。

          個人による日本初児童叢書である『日本昔噺』(24編)、『日本お伽噺』(24編)、『世界お伽噺』(100編)などのシリーズを刊行、日本はもちろん世界中の伝承説話のリテリングを体系的に行った。

          『桃太郎』『金太郎』『浦島太郎』『こぶとりじいさん』[3]などの民話や英雄譚の多くは小波の手によって再生され、幼い読者の手に届いた。

          俳人でもあった小波は自ら開拓したお伽噺の世界を俳画の世界に融合させ、「お伽俳画」という独創的な世界を創り上げた[4]

          日常生活では、足の裏を子供たちにくすぐらせるのが好きだった[5]

          経歴

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          医学を拒否して文学へ

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          東京府麴町平河町(現・千代田区)出身[6]。巖谷家は近江水口藩の藩医の家柄である。父の巖谷一六は水口藩の徴士として新政府に出仕し、詔勅の起草や浄書、公文書の管理を行う書記官僚であるとともに、明治を代表する書家としても認められていた。母の八重は一六の2番目の妻で、父にとって6番目、母には4番目の子が季雄である。身ごもっていた母は、父一六に呼ばれ上京し東京で季雄を生んだが、小波の当初の本籍は滋賀県にあった。母はその年の10月1日に肺炎で死んだ[7]

          父は官途で栄達しのち貴族院議員となり、季雄は裕福な家庭に育った。10歳のとき、兄巖谷立太郎が留学先のドイツから『オットーのメルヘン集』というドイツ語の本を送ってきた。ヨーロッパの昔話や童話を多数おさめたこの本を、立